数学する身体

 表題は、本屋で手に取った、森田真生さんの本の名前です。

 3+4は幾つですか?と聴かれたら、指を折って数える小さな子供。次第に慣れて、頭で考えて7と計算できるようになります。これこそが、数学という営みの原点だと僕は思うのです。

 全単射を説明するとき、羊飼いの例え話をします。昔の羊飼いです。数を知りません。一匹、二匹、三匹、あとはたくさん。お昼は羊は放牧させますが、夜には同じ数だけ戻ってきたか管理する必要があります。減っていたら探しに行かなくちゃいけないですから。(増えていたら、どうするんでしょうね)この羊飼いは数を知りませんから「お昼にたくさん出て行って、夜にたくさん戻ってきた」ぐらいにしか分かりません。その感覚は、例えるならこんな感じです。

羊のショーン
「ひつじのショーン」より

 認知心理学者スタニスラス・ドゥアンヌは、動物とヒトに共通の「数を量的に把握できる能力」があると主張します。スービタイゼーションという、即刻を意味するラテン語のsubitusが由来だそうですが、人間は生まれがながらに1から3ぐらいまでの数の違いを把握できる能力を持っています。しかし、4を超え始めると、違いが分からなくなります。上の画像で何匹いるか、一瞬では分からないということですね。漢数字を見ても、はじめは「一、二、三」と棒を増やしているだけですが、4からは四を使います。ローマ数字もそうですし、アラビア数字(算用数字)も1、2、3は棒繋げて書いたものです。

 さて、昔の羊飼いは数の代わりに小石を使いました。羊が牧草地に出て行くと石を一つ、籠に入れる。夕暮れ、羊が帰ってくるごとに籠の石を一つ捨てる。全ての小石が無くなれば大丈夫というカラクリです。10匹までなら数が分からなくても指を折ることができますし、トレス海峡諸島の原住民は、身体を使って34まで数えられるそうです。これは、数えるという行為に他なりません。

 そして我々は、小石的存在を「一、二、三、…」という言葉に置き換えました。これが数です。敢えて漢数字で表記しましたが、果たして、百五掛ける二十四などと書いていては、四則演算すら儘なりませんね。計算には算盤(abacus)を使いました。ようやく7世紀に入ってから、105×24のような「計算できる数」まで発展するのでした。数も計算も、最初は身体性を伴うものでしたが、時の洗練を受けた記号を使うことで、慣れるに従って頭だけで考えることが出来るようになったわけです。

 また、ドゥアンヌによれば、足し算(3+3+3)と掛け算(3×3)では脳の使う部位が異なるそうです。掛け算するとは、暗記した九九を思い出すことです。その九九は、まるで歌を覚えるかのごとく、何度も何度も口ずさみ、それで諳んずることが出来るようになったはずです。

 ある講演で、有名進学校の先生が「最近はパソコンで立体図形を見せられて、これは素晴らしいことだけれど、導入して、かつての折り紙で実際に作って触ってみる感覚も大切だったんだと感じている。」と仰いました。そうだよなあ、と思いました。勿論、僕も図形描画ソフトを使って授業をするし、折り紙で期待するような効果だって、好きに触らせてあげると、嬉々として自分で数式を入れたりグリグリ動かしたりするので、それで得られる気はします。計算だって、Mathematicaのような計算ソフトも使います。ICTだーいすきです。ただ、楽器を扱うように、運動するように、数学は身体に染み込ませるものだと僕は思うのです。

 数学を教えて十余年が過ぎました。その経験則ですが、数学が不得意な人は書きません。書かずに考えます。頭に浮かべている数式を、実際に書いて眺めたり、口にしてみることは、結構大切なことかも知れないですね。

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